香川県旅行記〜2日目編〜


高松の朝は早い。目当てのうどん屋さんは朝6時開店。だというに6時に起きた。寝坊寝坊。

6時半くらいに店に着くともうすでに満員、店内外合わせて20人ほどの行列ができていた。でも、回転がとてもスムーズで、常にじわじわ列が動いている感じ。15分くらいで席に着くことができた。

いただきました。釜バターうどん。小490円。

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とっても美味しかった。

この美味しさでこの安さ。

仕事がかっこいい。朝からうまいうどん打つ。場所を提供する。安くで食べてもらう。喜んでもらう。以上。シンプル。
人がずっと入れ替わるから騒がしい店内かもしれないけど、不思議と居心地がよかった。食べ物との対話でもう完結している感覚。セルフサービスという自治の部分があるのも良いのかもしれない。対等に近くて。

あとは、やっと自分の好みのタイプのうどんがわかってきて嬉しかった。知ってる中でベターを選ぶのは簡単で、きっとそれでいいのだけれど、私には興味がある。まだまだ知らないうどんの魅力もあるはずで、それも知らずでうどんのなにがわかる、という興味。うどん道は始まったばかり。

清々しい気分で店を出た。

 

 

 

さて次は、旅の目的地、高松市美術館

「みる誕生 鴻池朋子展」

惹かれたきっかけは、この緻密な鉛筆画と動物の瞳のかわいさ、そして唐突な糞。

テーマとしては、「みる」どういうこと?人間を含む生き物たちはどう生きて何を残すのか?生きていることってどういうこと?みたいな内容だった。

印象に残ったことを書き残しておきたい。

 

美術館に入って最初に目に入るのがこれ。ツギハギの牛皮に描かれた作品。
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鴻池氏は、”生まれたての体で世界と出会う驚き”を「みる誕生」という言葉で表している(展覧会チラシより。)視覚だけで見る、見えている状態とは違った、能動的に身体で感じようとしている状態だと思う。

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触る、手で見るという鑑賞方法の提示もされていた。

展示室に入って最初はコレクション展と糞の模型。キャプションには、生きた痕跡として生き物は糞を残すけれど、人間は腹を満たせるわけでもない作品を残す、というようなことが書かれていて、展示には、唐突に足元に糞の模型がある、という攻めた内容。自然であるってどういうこと?と考えさせられる内容になっていた。

糞は肥やしになる、といえば、人間の作品だって何かの肥やしになるかもしれないね、と肯定的に捉えることもできるけど、作品なんて屁のつっぱりにもならねえよね、みたいな、人間中心主義や自然と切り離された「芸術」の特権的地位への挑戦みたいにも捉えられる。のだろうか。

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途中、狼の毛皮が吊るされている通路があった。「どうぞ、触ってみてください」と監視員の方が言ってくれたけれど、触れるしかない距離に吊られている。

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生きていたんだよなこの動物たちは、とギョッとするのと同時に、手触りに気持ち良さを感じるという自分のチグハグさ。総じて、見て、触って、匂って、という体験のプロセスの捉え直しに思える。さあ、どう感じますかっていう。書いてみたら当たり前のようだけど、なんでもデジタルで見た気になってしまう現代社会だったり、さらに今のコロナ禍において、出向いて何かと触れる出会いそのものに対する感受性が薄れてしまっているようで、改めてこういう体験にこそ、ものすごい情報量が含まれているよなと思った。(そして、今美術館でそれを感じたわけだけどそれ以上に、あらゆる”現場”こそがそのリアルだと思う)

 

「みみお」という絵本の原画に見入った。

www.seigensha.com

柔らかさと強さが共存しているような鉛筆画で、白は雪のように冷たくてふわふわしていたし、黒は闇のように深いのに何故か暖かかった。綿毛のような丸い身体に手足が生えているけど、顔のパーツはない、謎の生命体?みみお。その一生みたいなのが、繊細で。

みみおのアニメーション作品もあって、みみおが四季を旅する作品。顔の表情はないのに、いろんな感情が伝わってきて生の美しさを感じた。最後、目なんてないはずなのに、ぽろりと涙を流していて、ああ……と一緒に泣いた。

 

あと心に残ったのが、「みる」ことの暴力性かつ創造性に目を向けているテキスト。
見る人あっての作品です、というのはよく言われるけれど、人ひとりひとりの体験、もはやその命に訴えかけているような展示なのかも、と思った。

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一通り鴻池氏の作品を見終えると、木下知威氏との往復書簡の展示に。とても読み応えのあるものだった。木下氏は、盲唖学校の社会史、視覚障害者や聴覚障害者の身体、コミュニティに関する研究者。自身も耳の聞こえない方で、自身の体験から感覚の話だったり、それをどう表現するか、しているかの話や、言葉でどう表すべきか、表さないべきか、表せないときの話など、とにかく示唆に富むものだった。
私は今は見えるし聞こえるけれど、個人的に興味があることや悩んでいることにも関連した話があって、なんだか救われる思いになった。私宛じゃないのにね。

2人がやりとりを重ねるうちに、だんだん、手紙が便箋ではなくなってきて、裏紙や広告に書いてあったり、葉っぱに書いてみたりと遊びはじめていて、アウトプット先のメディアの違いでも、書き方や感覚の違いがあるね、という話をしていて、これもまたヒントをもらった。
軽い気持ちで読み始めたら、1時間以上経っていて、残りの展示は早足になってしまった。

最後の部屋には、国立ハンセン病療養所、菊池恵楓園の絵画クラブ「金陽会」の作品もずらりと並んでいた。美術史ではあまり語られない陽の当たりにくい作品たち。そして、鑑賞者というか私も、正直、よし作品観に行こう、とはなりにくいなと気付いて、改めて作品の評価ってなんだろうと考える場になった。私(たち)は評価されたものを良いものだと思って見に(鑑賞しに)行っている、のか?それって、じゃあ、人が絵を描く、そもそも人間が作品を残すとは、どういうことか。そして結局やっぱり、みることってどういうことなんだろう、と最初の問いにも戻ってきた。美術館の役割、システムについても考えさせられる展示だった。

”芸術品”と呼ばれるものから糞、手紙、毛皮、可愛くて惹かれるもの、怖くてギョッとするもの、語られるもの語られないもの……。この展覧会で感じたことは、しばらく私の中でテーマとなりそう。

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さて、ラストうどん、と行きたいところだったけれど、先を急ぐ予定があったので、結局またマリンライナーへ。安くで帰ろうと思ってたんだけどなーなんて思っていたところ、電車で小さな女の子が、海は広いなーおおきいなーとでっかい声でうたっていて、心がすべてオッケーになった。

 

最後の行き先は京都磔磔


そう、旅の〆はおとぼけビ〜バ〜のワンマンライブである。
旅程がたいへん。でも、ちゃんと間に合わせる、こういう才能だけはある。

 

ライブは最高だった。

予測不能変拍子だったり、フック効きすぎて爽快だけど互いにズタズタになりそうな歌詞だったり、と、なかなか振り回されるけどなぜか心地よい。一見奇抜だし、突飛だと思われるかもしれないけれど、外野からの勝手な見られ方なんてそもそもどうでもよく、は?狂ってんのはどっちですか?と言わんばかりのあの演奏、あの姿勢、あの視線。めっちゃ痺れた。

歌詞のテーマは、男尊女卑社会や勝手に決められた属性で抑圧される社会、同調圧力や皆おかしいと思ってるのになくならない風習……に対する怒り虚しさ、寂しさ、かつ自分の弱さ情けなさにも葛藤している人、だったりする。(でも演奏をしている相手は社会ではなく、多分もっと個人的なもののような。)

私は、もしかしたら、彼女らの歌が良いと思えるのはしあわせなことじゃないのかもしれない、なんて思うこともあったけれど、ライブではそういうネガティブな心さえも、楽しいに変わってしまった。でも単なる、前向きというベクトルではない方向。新たな境地に立たせるみたいな、強さ。

嘆くだけでも怒るだけでもない。音楽で言葉にならない感情さえも表現されているかのようなうねり。そして、笑いもある不思議なバランス。悪霊を退散させる奇祭、とはちょっと違うけど、良からぬものの立場がなくなってシュッと消えてなくなりそうなパワーを感じた。

そして、あの方達は美しかった。魅せ方もあるけど、人間らしさって美しいと思う。

 

Otoboke Beaver

  • パンク

music.apple.com


終演後は、先月nanoで彼女らを見たときに出会った方と語りながら帰って、驚くほど楽しかった。ハイテンションに付き合わせてしまって大丈夫だっただろうか。賢くて素敵な方だった。またどこかで会えるといいな。

 

 

そんな感じで、ほくほくとした気分で帰宅。体はめちゃくちゃ疲れたけれど、疲労感はなかった。

いろんなものに触れて、またどんどんやりたいことが出てきた。おいおい、またやるやる詐欺で終わるやつやん、とも思う。けど、今までは自分の足りない部分を埋めるために、みたいな考え方で行動を変えようとしていたけれど、そうじゃなく、やりたいからやる、という考え方に変わりつつあると思う。それに気付けてよかった。
シンプルでいいと思う。心なんて複雑だから。すぐ変わるしね。厄介厄介。


そういいつつ、また失敗したり、忘れたり、道を間違えたりするんだろけど、ここに書き残しておいて、迷子になりすぎないように、また日々を続けたい。


以上、旅の記録。