あー!の迷宮から抜け出すための行ったり来たり

 

ライブに行くのが好きだ、と言い続けて10年以上になる。

音楽はもちろん好き、そしてやっぱりライブが好き。音楽に触れているような、それはだれかの人生にふれているような、自分の心に触れているような、よくわからないけれど、生きている実感がして好きだ。

作品や演奏にいろんな感想をもつ。余韻でしばらく生きられる。感想をブログに書いてみたりして、ライブが終わっても楽しませてもらっていた。

そんなわたしが、ある日ライブに行ったとき、感想が「あー!」になった。それから、わたしは「あー!」にとらわれてしまった。

 

この「あー!」は最高すぎて言葉にならないね、の類の、きっとポジティブな何か。(のはず。)
きっと、よいことである。きっとそれは、最高だったのだから。

 

ただ、わたしは、このことに引っ掛かってしまった。自分自身に対して。

何かを言おうとするのに、言葉になっていないことに焦る。
ただ、言おうとして出てきた言葉に、そんなことを言いたかったのではないと憤る。
では、本当に言いたかったことはどんなことかを考えて言葉にして文章にしたときには、そのとき感じた純粋な「あー!」と感じた部分がどうも抜け落ちている気がする。

わたしは、ライブをみたあと、よく言葉の世界に戻ってこれない状態になる(と呼んでいる)。ただ、それはいつまでも続かない。続かないが、終わったときには、何かが消えている。だから焦る。言葉にならないのに、言葉にせずには消えてしまう。なのに困る。言葉にしても消えてしまう。

こういった引っ掛かりである。

 

「あー!」とは、一体なんだったのか。

言葉、以前、

意味、以前、

あるいは、以降の、何か。


音楽を聴いた時の感動やその体感は、どこまで言葉で説明できるのだろうか。
言葉にできないという言葉が存在するように、言葉は万能ではない。
言葉にできないものがあるから、音楽があるのかもしれない、とも思う。

それだから、わたしは気になる。

 

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心の琴線にふれたとき、明言しようとしてもうまくいかず、思わず「ああ」と言う。表れは漠然としているが、心は豊かに働き、何かをはっきりと感じている。その証しとしてときに落涙することさえある。

言葉にならない想いにも、大きな意味があることを知る者たちはいつからか、「ああ」という発露に「嗚呼」という文字を当てた。こうした出来事が、嗚咽のうちに現れる、内心からの呼びかけであることを示そうとしたのだろう。

 

若松英輔氏のエッセイ『悲しみの秘儀』より。言葉にならない言葉についてこのように綴っていた。まったくそうだなよあと思うきれいな文。心の機微、言葉にならないを、あるものとするためにあてた言葉、こそが「ああ」なのだ。もはや縋るような思いすら感じる。だから、嗚呼も立派な言葉だ。


なぜ引用したかというと、わたしは、「あー!」も言葉であることを忘れていた。(えー!みんな気づいてたんですか!!!???)
ただ、言葉で言えてるじゃん、それでいいじゃんという話ではない。

あー!は言葉なんだけれど、あー!しか言いようのない心の内に、もう少し言葉を与えてあげたい。それは、あー!という言葉に対する冒涜かもしれない。だけれど、あー!に全てを託すしかなかった、あるいは、あー!と言う言葉にしてしまったばかりに削ぎ落とされていく何かにこそ、音楽が音楽である所以があるのではないのか、というわたしの妄想のため。

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人は感じる。言葉で理解する以下でも以上でもなく。「あー!」は何かを感じた結果である。では、あー!は、いつの時点で、あー!になるのだろう。

表現者があー!を表現したくて、そのままあー!部分をわたしが受け取ったから、あー!なのか。

表現者・対象から受け取ったものは、わたしの内っ側でもうすでに血となり肉となり言葉となっているが、そのプロセスを経た後最も適切な言葉として「あー!」が発せられたのか。

それとも、まだ言葉になっていないからあー!なのか。ということは、いつか言葉になるのか?(それだと言葉がすべてになってしまう?)

 

と、書きながら思ったけれど、これらは、時と場合によるかも。

 

から、なぜ音楽に対してそう思うかという、感覚の話を書きたい。

音楽を聴き終わった後に言葉にしようとするとき、音楽を聴いていた過去を辿ることで言葉を探しにいく。探しにいくと「あー!」という喃語のようなものしか見つからない。それはあー!以外に、語りうる言葉を知らないんじゃないか。なぜなら、音楽を聴き終わるのは、未来に体験することだから。未来の言葉を知らないのだ。(意味わかりますか??わたしはわからない!!)


もう1つ違う感覚の話。

音楽は目に見えないはずなのだけれど、見たことないどこかに連れて行ってくれると思うこともあって、何度か走馬灯のようなものを見たことがある。これは比喩なんだけれど、というか、走馬灯も見たことないのだけど、簡単にいうと「あーこれは走馬灯で見る景色なんだろうな」という感覚のこと。

見たことないものを見ている。未来を見ている、未来の言葉を知らない。だから、あー!としかやっぱり言いようがない。

 

「あー!」には、対象と出会った喜びとか嬉しさも隠れているのだけれど、どちらかというと、まだ見ぬものへの恐れ、畏れに似た感覚から引き起こされるもののような気がしている。

 

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「あー!」は「あー!」でいい。ああでもAhでも、人の嗚呼にとやかくいう気もない。なのだけれど、わたしはだんだん、言葉にならないことをあーと言っておけばいいになってはいないか?という自問自答を繰り返すようになっていた。言葉にすることから逃げていないか?と。

言葉にならないことは絶対にある。する必要のないことも絶対にある。言葉にするという暴力さえも頭をよぎる。なんて、考えすぎると「語りえぬことは沈黙しなければならない」byウィトゲンシュタイン、という語られすぎている一文が浮かんだりもする。でも、結局わたしはそれについても語ろうと試みていないよなあ、と脳内チャンバラを始める。

これは、もうはっきり言って埒があかない。それでも、諦められないところにわたしがいるのだから仕方がなくて、こんな怪文を書いてしまう。

 

なので、最近はいろんなアプローチから謎に向かうことにしている。

例えば、音楽で「あー!」と思ったのなら、「あー!」のままを冷凍保存して解凍は言葉ではなく、音楽で解凍すれば、できるだけ「あー!」の状態を保存できるのではないか。これなら、「あー!」を言える、と。(てか言う必要あるのか?)

でもね、じゃあ、やっぱり、音楽って何?となってくるので、これは最強に楽しい。意味がわからなくて。

と書いたところで、やっぱり、最初に戻る。

意味、以前、なんじゃないか。

 

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意味とかいうてるけど、意味なんてないさ!!!

じゃああんた、好きに理由とかあるんか???

聴きたいもん聴くし、ライブ行きたかったら行くし、歌いたかったら歌う!以上!

というわたしもわたしの中には存在する。けれども、なあ、ほんまなん?なあなあ?というわたしもわたしの中に存在する。二重人格ではないけど、好きなら好きでいいさ、の一本になれば楽なのになと思う。この矛盾がわたしなんだけど。

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あることを気にしていると、どこからともなくそのヒントがやってくることもある。

中原中也は『生と歌』という芸術論の中で、「あゝ!」について触れていた。

 

古へにあつて、人が先づ最初に表現したかつたものは自分自身の叫びであつたに相違ない。その叫びの動機が野山から来ようと隣人から来ようと、其の他意識されないものから来ようと、一たびそれが自分自身の中で起つた時に、切実であつたに違ひない。蓋し、その時に人は、「あゝ!」と呼ぶにとゞまつたことであらう。


然るに、「あゝ!」と表現するかはりに「あゝ!」と呼ばしめた当の対象を記録しようとしたと想はれる。

と。

「あゝ!」は叫びだ。「あゝ!」にこめるしかなかった叫びには、「あゝ!」と言わしめたそのままが密接に重なっている。その叫びの経験こそが表現の原点であり、「ただ叫びの強烈な人、かの誠実に充ちた人だけが生命を喜ばす芸術を遺した」というのが彼の主張だった。(めっちゃ雑にまとめると、芸術表現はどこから生まれていて芸術はどこに宿るのか、みたいな話。以上の引用は冒頭だけれど、後半は音楽論でもあって、形式とか理屈とか小賢しい評論してるよりか叫び自体の経験とそれを喚起した記憶と向き合え、叫びに似せる技の習得こそ芸術、とはいえ技巧だけちゃうねん。表現を表現しようとかちゃうねん。そもそもの”叫び””生命の叫びを歌ふ能力”についてはどうなんやワレ?という話、だと思っている。)

 

わたしのライブに行った時の「あー!」は叫びの類だ。言葉であることを忘れていたくらいだから、こっちの方が感覚的に近い。感動の中でも衝撃が大きいもの。言葉で説明できないけれど、その凄まじさみたいなものに触れた時のものだと思う。そこにおそらく意味はない。そして、それはきっと、音楽の部分なんだと思う。

 

だから、やっぱり、「あー!」は「あー!」なんだ。そして「あー!」は全てなんだ。音楽全て。

 

まとめが雑になってしまった。

だけど、わたしはわかっている。語り尽くせないところにあるものに、心底惹かれているんだということを。
逆に、音楽を全て語り尽くせたとしたら、わたしは生きることに耐えられないんじゃないか、とも思っている。

 

ちょうど読んでいた本に良い言葉が載っていたので、結局は言葉に頼ることにする。

「人はつねに愛するものについて語りそこなう」byロラン・バルト

 

以上、あー!をめぐるゴールのない迷宮について、もとい、音楽をどうとらえる、とらえたいのか、について。書くことでやっと次のステップに行けそうな気がする。

音楽を通して、いろんなことを感じたり考えたりわかりそこなったりすることが、わたしのライフワーク。