「そして、世界は泥である」か

 

林智子さんの個展「そして、世界は泥である」を見てきた。

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行こうと思ったきっかけは、「そして、世界は泥である」という題名の一文に惹かれたこと。
例えば”世界は光である”よりも惹かれてしまうのは、ただのわたしの癖だけれど、この一節は、イタリアの厭世主義の詩人ジャコモ・レオパルディの詩の言葉だそう。

 

会場である京都芸術センターは、元明倫小学校の校舎を利用したアート施設。

展示は、廊下をぐぐっと奥まで歩いた先の展示室から始まった。

京都の深泥池、そしてその泥に作家が魅せられ着想を得たという本展。
薄暗い展示室に、絹の薄い布、そして、泥水のはった池のようなものが展示してある。池の表面には、泥水の中にいる鉄バクテリアの働きによって生まれる膜が現れる。作家はこの膜に、意識と無意識の境界を重ねたそうで、泥という言葉の持つイメージから想像できない、なんとも繊細な世界に誘われる。

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そして展示室内には、「N-Energy」という"水中の植物や微生物の循環作用から発するエネルギーを利用した発電装置"から発せられた環境音が流れていた。静かながら何とも言えぬ音が耳に入ってくるこの不気味さは、泥に足を踏み入れてしまった感触に似ているのかもしれない。ちょうど他の鑑賞者もおらず、ほんの少し異質な空気を感じた。


その奥の小さな部屋の展示で、びっくりしたのは、足元に土が敷き詰めてあったこと。

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足元の感触が変わると、体感も変わるし、ここがどこなのかという意識も変わって楽しい。単純にわくわくもする。
そして、鉱石ラジオなるものも設置されていた。鉱石に針をあてて電波をさがす。鉱石を媒介として、声なき声にまで耳を傾けるかのような体験。なにこれ、すご!

 

展示の順路は2階に続く。古い校舎のギシギシと鳴る階段を登って作品を体験しにいく。

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廊下にも作品があって、植物発電によって演奏された音に耳を傾けて歩く。なにとも書きにくいが、美醜とか良し悪しとか明暗のとかの価値判断によらない、生命活動の音。音なき世界から発せられている、聞こえないけど存在している音、なんて思うと、ロマンさえ感じる。

 

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ポツポツと水滴が落ちる度に、水面に投影された虹色が揺れる。…好きだ。

 

展示の最後は、真っ暗な部屋。吊るされた絹布と和鏡が目に入る。20分のサウンドインスタレーションを体験する作品。

照らされながら、恒星の自転かのように回っている和鏡。影と和鏡の反射がピタッとあう瞬間には一種の心地よさを感じながらも、重心がどこにもないような不安定さを感じる。

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ともなくして聞こえてくる音。はじまりは会話のようで、なんとなく聞き取れるけれど(解説によると、インタビュー音声らしい)どんどん重なり合ったり、環境音が混ざり合ったりしていき、聞こえていた言葉は意味伝達の役割をなくしていく。自覚的な世界から無意識の世界にアクセスさせようとしてくる轟音。どんどん泥の中にひきづり込まれるような、というか、そもそも世界は泥であるのだという世界観に見事に包まれていく。

しかも真っ暗で、状況がよくわからない。不安で、不快ともいう。不安になると、不安から逃れたくて、意味とか言葉とかのわかる何か手がかりが欲しくなる。でもそんなものはここにはなさそう。しかも泥だし。ずぶり。

しばらく爆音ノイズに身を委ねるしかなかったが、後半につれて、光が反射するような(といっても見えないけれど)キラキラとした澄んだような音や、小鳥の声も聞こえてきた。轟音のもやもやの中から出会える音としては、救いにも思えた。
最後は音とともに光も消えて鏡も止まった。

わたしは、なぜだか、満足して展示室を出た。


無意識の世界、見えない働き、常に起きているなにか。それらの存在の気配を感じたり想像したり、あるいはそれを自覚できるのかという問いかけであったり、に思いを馳せる体験だった。古い校舎の質感や匂いもあいまって、空間全体でそれらを体感したようにも思う。

泥といえば、足を踏み入れては戻れない一種の嫌悪感や、直視したくないものも連想する。混沌に耐えられず拒絶反応を起こしてしまうようなテーマとも。だが、作品は、わたしたちに立ち向かわせるわけでもなく、ただ意識を向けさせる。

泥と共に、泥の中で、それでも生は「そこにある」、それが世界である。だから?の部分があるとしたらそれぞれに委ねられているかもしれないがそれは主題ではない、その意味をわかろうとしてしまう意識を超えた往来こそなのだ。

意識と無意識、内と外、見えるものと見えないもの、他者と自分、生と死、(対比は無限だが対比以上に)それらの境界線、そしてつながりを繊細に見つめる、作家の澄んだ視座が印象的だった。

見えていないから、ないのではない。けれど、確かにある。
わたしはこの展示に触れた気持ちを、どう説明できるかはわからないけれど、なぜか、元気がでた。心の中の泥がかき混ざられたことを、喜びと錯覚したのかも。


展示は、6月9日まで。しかも無料、ふとっぱら、おすすめ。いい体験だった。

 

参考:
ジャコモ・レオパルディ『カンティ』脇功, 柱本元彦訳 名古屋大学出版会
会場内ハンドアウト 林智子 Artist Statement 安河内宏法「泥の中から/泥の中へ」