2022年展覧会まとめ

 

2022年に訪れた展覧会の感想集。備忘録と、メモのまとめ。

 

1.みうらじゅんマイ遺品展

開館25周年記念「みうらじゅん マイ遺品展」|展覧会・イベントカレンダー|アサヒビール大山崎山荘美術館

圧倒的量。ひっかかるものを突き詰めていく執念。あそこに展示されていた全てが、コスパ、タイパ、断捨離、役に立つ、の対極にいた。ただそれが目的のアートではなく、ユーモアとかエンターテインメントというなま温かいものでもなく、人の根源的な欲求というか衣食住のポジションにこの無駄なものたちがいるような気がして、勇気をもらった。私は、みうらじゅんの大ファン、というわけではないが、この展示のおかしなエネルギーをしばらく引きずった。

 

2.みる誕生 鴻池朋子

みる誕生 鴻池朋子展|高松市美術館公式サイト

参加者1人1人に自分で「みる」ことを改めて自覚化させた展示。その考え方と試みにひかれた。以前の香川県旅行記〜2日目編〜 - つづ記にその時の感動を残しているが、ここで感じたことは忘れないでいたい。

「表現」「感覚」「言葉」が自分の中のテーマとなった。

 

3.Homō loquēns「しゃべるヒト」〜ことばの不思議を科学する〜

Homō loquēns 「しゃべるヒト」~ことばの不思議を科学する~ | 国立民族学博物館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ

人と動物のコミュニケーションの違い、言語の多様性、そもそもどのようにヒトは言葉を学習して、どのように言葉を操るのか、なぜ人に伝わるのか、伝わらないのか、などなどを、文化人類学言語学脳科学、心理学等々様々な研究から読み解いていく、、という壮大な展示だった。

「言語」というと正しい形があると思われがちだが、実際には、話し方やコミュニケーションの取り方に完成形があるわけではない。完成形を前提に社会が成り立っているなら、言語をうまく操れない人の声は蔑ろにされてしまう、という指摘から始まり、私の興味関心のど真ん中だった。

展示は、全てのキャプションに日本語と英語と日本手話の動画がある。手話の解説は初めて見たが、ここではたと気付く居心地の悪さ。こんなにこちらに向かって何かを伝えようとしている動画があるのに、私はそれを全く読み取ることができない。マジョリティ側の感覚を疑わず生きてきたことを恥じた。音声言語と手話言語の違いやそのコミュニケーションの違いなど、今まで考えたことないことばかりだった。さらに、盲ろうの方のコミュニケーションの取り方、手話話者は寝言を手話で話す、とか、知らないことだらけ。

「言語ヒストリー」の展示が素晴らしかった。さまざまな人生と言語。失語症、盲ろう、自閉症、脳性まひ等をもつ20名へのインタビュー。人はひとりひとり違うように、ひとりの人生をとっても言語は変化するし、その人の言語を使うし、たとえ話せなくても声はある。

印象に残った言葉メモ。

・たとえ同じ言語が使えなくても、コミュニティの一員であることに変わりはない

・表現ができなくても、考えていないわけではない

・違うことで悩み、一生わかり合えないと絶望した。けれど、共通言語があればわかりあえる。それを見つけていく

・うまくいかなかったものが、詩にしたら伝わった

 

引き続き「言葉」「感覚」「コミュニケーション」への興味は続いている。

 

4.サンリオ展 ニッポンのカワイイ文化60年史

【公式】サンリオ展 ニッポンのカワイイ文化60年史

商品だから、ビジネスだからどうせ金なんでしょの、枠を超えるサンリオのプライドをみた。会場がこんなにも「かわいい!」の声で溢れている展示は初めてみた。
今やいろんなところでキティちゃんをみるけれど、その歴史を知ってなるほどと思った。"「心の満足を与える」サービスを提供するビジネスならなんでもやる"という企業理念。(でも個人的には、ちょっとなんでもやりすぎでは、とは思う。「かわいい」「メルヘン」に一寸の陰も落として欲しくない気持ちはある。)

今やサンリオの総選挙でしか見かけないキャラたちを含め、どういう時代背景でキャラが生まれてきたのかを知れて、とても面白かった。その時代ならではの空気。消費者が求めていたもの。売ろうとしたもの。芸術作品ではないからなかなかこうして体系的に見ることは少ないけれど、消費者こそ感覚は敏感で、その時のリアルが読み取れる。かもと思った。


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帰宅後しばらく、あれ私持ってたなあ、どこにやったっけ、と思い出探し。図録に載ってるものを持ってるなんてはじめて、と思った。年代的におそらく母のおさがり。

 

私は小さい頃からひねくれてたから、女の子だからってキティちゃん好きって限らないでしょ!と思っていたけれど、そう言いつつぬいぐるみは大事にしていた記憶がある。それでもキティは何も言わずにそばにいた。そういう存在。…っていうことも表現してるのかしてないのかの、増田セバスチャン氏のサンリオタワー。みうらじゅん展で見た詰め詰めゆるキャラぬいぐるみを連想したのは間違いだろうか。(cf.いやげもの)

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これもキャラクターという言葉も使われてなかった時代から、400以上のキャラをうみだしてきたサンリオの功績の1つ、か。ここまでキャラ文化が根付いてなかったら、ゆるキャラもここまで増えてない、かもしれない。というこじつけ。

 

もう1つ印象深かったのは、いちご新聞の存在。”かわいい””メルヘン”だから出来ること、だからこそ言えること、伝わること。いちごの王様が文章を綴り続ける責任。

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いちご新聞は、読者も巻き込んで意見交換の場になっていたり、交流の場だったり、というあり方も素敵だと思った。(当時のいろんな雑誌もそんな感じだったのかな。)今はその場がSNSとかオンラインのFCとかにとってかわっていってるのかもしれないけど、このやり方だからこその活気は魅力的だと思った。

 

5.柚木沙弥郎LIFE・life展

美術館「えき」KYOTO

あらゆる人のファンであるけれど、圧倒的最年長推しは柚木沙美郎さん。100歳。

雨ニモ負ケズ」の詩と柚木さんの原画をじっくり見て心震えすぎてびっくりした。泣いた。詩はもちろん知ってる。でも、はじめて出会ったのかもしれない。こんなに心打たれるとは。小学校の教科書、暗唱の題材としてが出会いだから、当時はへーそうなんだーくらいにしか思ってなかったのかもしれない。
生きることへのこうありたいがひしひしと伝わってきて、でも、誰かにわかってくれ、とも言っていない。でも、伝わる。柚木さんの絵は感覚的で何とは言えないのだけど、それが心の何かに語りかけてるようで、説明できないけどすばらしかった。心って説明できないし心をみたのだと思った。びっくりした。
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最近宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」を読んでいて、そのタイミングでこの地図を見て、次の旅の目的地は盛岡だなと思った。

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つきよのおんがくさい、の原画。展示の仕方もリズミカルでよかった。f:id:k2-tkbs:20221231232241j:image

 

このスペースきたとき、わあっと思った。小石たちで動線が促されてるのもすてきで。隔たりで通路を作るんじゃなくて、流れるように自由に歩ける、風通しの良さもよかった。ひたすら、見ていると心地よくて幸せだった。ため息が出た。生活と芸術、美しいもの自然と人、心と体、を切り離さない暮らし、を思う。いいものをみるとみなぎる。そう確信した。


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作品に触れた時、感動した時、一体私は何を見ているんだろう、といつもふわふわとした気分になる。後から、展覧会の図録を読んでいて、ハッとしたことが言葉がこれ。

「人は何故、心を形で残そうとするのか」

ああ、やっぱり心を見ていたんだ。だからわからなかったしわかったんだ、と変に納得した。この感覚、大切にしようと思った。