とある日-2

 

とある日の日記。

 

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会社をやめた。ただしくは、代休がたまってるのでしばらく働かない。休みは散りばめろよな、と思いつつ、せっかくなので謳歌することにした。

ふらっと入ったお菓子屋さんのタルトを公園で食べる。気候らぶ!5月の無職まじ最高やん!などと思う、本日はメーデー。私は人と人として関わりたいし、何よりここにいてはいけないと思った。それだけなのに、どうもふがいなさに凹んでいた。
選んだのは自分、もう少しうまいことできれば、いやいや一刻も早く辞めておけば、それ以前にそもそもあんたね、、など。人はこれを後悔と呼ぶのかもしれない。けれど、待てよ、全部選んだのは自分で、やめるぞと決断できたのも自分。何にも曲がったことはしていない。充分だ。

 

前々職場に行ってみる。可愛いものばかり売っていて、幸せな気分になるような気がして、すてきな生活に憧れて、豊かさってこんなのかしらと幻想を抱く。
だが、なぜかいつも、なにも買わない。どうやら、自分が心から求めているものではないらしかった。

実際のところ、が気になる。そこで働く人の健康は守られているか?幸せとは何かも考えずに押し売りする幸せとはなんなのか?

生活はフィクションではない。楽しいのに心が曲がりそうで、わたしには長く続ける手立てが見つけられなかった。でも、良い経験をしたと思える。なんて、後からはいくらでも言えるけど。やりたいをやって、やりたいを通すためにやめた。

 

と、いうことを、思い出せたところで、次次〜!


よく行くライブハウスの近くで、気になっていた喫茶店に入ってみる。

細い階段を降りると秘密基地みたいに空間が広がる。降りている時のそわそわと、入った時の安心感。これはずっとクセになる感覚である。
なんだか、いい、と直感的に思う。

通してもらった席は、1人座るのにぴったりのソファと1人分ぴったりのテーブル。ソファの青色がとても好みだった。
中は撮影禁止。それがいい。映え目的になると、良く見えるモノだけを見てしまう。

雰囲気がいいからなんとなく、お淑やかに、という形容動詞が頭に浮かぶ。だけど、堅苦しくは感じない不思議。広くないのに窮屈じゃなくて、滞在時間はそう長くないのにゆっくりできて、なんだか贅沢な時間だった。

 

 

自分が可能であると同時に、必要だと思えること、なにより納得してできる働き方について考えている。たぶん、とてもシンプルなことだと思い始めた。

最近、自分の歩いている道が、こうするんだ!の目標はもとより、だんだん、こうとしか生きれない、の方向に向かっているような気がしている。これは、否定的な諦めではなく、どうも納得のいく方法を通していくと、否応にも、ひねくれたまま素直でいるしかなさそうだ、という希望的観測である。

だれかを憧れてもその人になれないし、真似をしてもうまくいくわけではない。自分を生きるしかない。なんて、当たり前のことを口に出してしまうときは、やっぱりすこし自信がないのだろうか。

 

こころよく 我にはたらく 仕事あれ 
それを仕遂げて 死なむと思ふ


啄木、まじそれな。