机の足

先月、初めてデッサンに挑戦した。

大学の集中講義があったので、やってみよう!と。

 
2日間の講義。道具、鉛筆の削り方、デッサンの基本的なことから教えてもらう。1日目の課題は赤玉ねぎだった。
 
前に真面目に絵を描いたのは、おそらく中学生のときの宿題で出たポスター以来。なので、さあ描きましょう!となったとき、少々たじろいだ。いや、描くしかないのだけど、絵を描くという感覚がわからず、時間内に描き終えられるか、うまくかけるんだろうか、今描いているこの線は正しいのか?!と、頭の中は忙しかった。
 
先生はひとりひとりの様子を見ながら、教室を回っていた。基本的なことが間違っていたり、バランスが違ったりすると声をかけているらしい。
私は正直、先生からの指摘を待っているところがあった。これでいいのか?!と不安だったから。
 
基本的に、自分は何事にも迷いながら生きてきた気がする。即決断することはほとんどない。そして、一度決めて始めたことも、自問自答しながら常に迷いながらしか進めない。
絵を描いていても、ふとそんなことを思うのだった。
 
1日目の成果はこれ。薄目で見たらマシに見えるか。
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 迷いながらでも、続ければなんとか形になることがわかって安心した。
受講生全員の絵が壁に並ぶと、十人十色、同じような鉛筆を使ったにも関わらず色の使い方も違えば、線の書き方も違う。
講評で、先生がそれぞれの良い点と課題点などを言ってくれて、とても勉強になった。そして自分の絵がまだまだであることをちゃんと実感できたのがよかった。
 
 
そして2日目。
今度は、テーブルにグレーの布を敷いて、黄色いパプリカを載せたものを描いた。
 
構図も自由であったし、前日と同じように、迷いながら書き始めた。でも、前日と違ったのは、きっと真面目に向き合えば、結果はどうであれ、なんとか描き上げられるという自信があったことだ。
 
途中で、先生は、この線は自分から見えている?とか、この辺りの光の加減はどうか?とか、形はもう少しこうではないか?など、こちらに問いかける形でアドバイスをもらった。その度に見えているようで見えていないものに気付かされる思いがした。
「見たままに描く」それだけのことが、意外と難しい。
 
そして、終盤、机の足は見えている?と先生に聞かれた。机の上のものに気をとられ、意識していなかったのだ。というよりも、見えていたけれど描いていなかったというのが正しい。
見えているものは全部描くのよ、といわれ、最初はしぶしぶ描いた。机の足は金属製で味気ないものだったので、あまり描きたくなかったというのが正直なところだった。
 
 
8時間近く目の前の風景と向き合い、なんとか自分の絵を描き上げ、時間となった。
 
正直、いいのか悪いのかわからなかった。前日は、初めてだったので終わったときはホッとしたし、なんとか課題をクリアできたことで満足していたが、2日目は、昨日よりもレベルアップできているのかよくわからなかったのだ。
 
前日と同じように、壁にズラリと作品がならぶ。前日よりも、構図がバラエティに富んでいて、いろんな絵があり、小さな美術展のようになった。
 
先生は休憩時間、じっくりと学生の絵をみておられて、「それぞれすばらしい作品ができたと思います。こうしてみると、全て良いですね。」とひとこと。
 
講評の前には、こんなことを。
「絵は描いた人の性格が現れるとよくいいますが、やはり同じ題材でも構図 線の入れ方 塗り方、いろんなところに出てきます。
長いことこの世界にいると、絵を見ただけで、描いた人が考えていることがわかったりするんですよ。あぁ自分と同じことを思っているのかな、なんて感じるとふいに涙がでたりね。」
 
この言葉を聞いて、急に泣きそうになった。人がひとりではなくなるような感覚。
二日間慣れないことをしてガチガチになった肩こりがすーっと消えるような気がした。
 
絵の講評に入ると、先生は完成品の評価だけでなく、それぞれの個性や、描いていたときのエピソードも交えながら話してくれた。それぞれの経験を聞いたりしながらの講評は、たった一枚の絵の中にもその人の人生が詰まっているような感覚にさせられる。
 
私は、もしかして見透かされるのではないかと思った。優柔不断で自信なさそうな絵だと言われるのではないかと。
先生は、それを見抜いていたかもしれないけれど、そんな言い方はしなかった。繊細な線で書かれた丁寧な絵だと。一番嬉しかった言葉は、「農家の人が、1つずつ大事に大事に育てたパプリカという感じがする」という言葉だった。
 
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素敵な先生に出会えて、すごく有意義な時間を過ごせたと思う。
 
講評後、ある人が質問をした。「家に帰って手を加えたら、もう少し良い作品になる気がするんだけど…」と。
すると、先生は、それはやめたほうがいいと言った。
 
家でまた同じような構図でパプリカを配置したとしても全く同じ状況は作れないし、別物になってしまう。それはデッサンではなくなるので、この作品はこれで完成と思ったほうがいい、新しく描いたほうがいい、と。
ここまでは、なるほど!と思いつつ、まだ想像できる答えだった。でも、次の話が、またわたしの涙腺を刺激するのだった。
 
「その人が、確かにその時そこにいて、目の前にあるものを見て、見たままを描いたということ。このこと自体がかけがえのないことなんです。」
 
いまここに自分がいる、その時そこに自分がいたという事実。当たり前のようで当たり前でないその事実が、急に尊いものに感じて、特別な瞬間に立ち会っているような気分になった。
「見たままに描く」という意味とその価値がわかったような気がした。
 
そして、自分の過ちに気付いた。
見えていたにも関わらず、机の足を描こうとしなかったこと。
 
そこで思った。自分はもしかして、これまで、自分にとって都合の悪いもの、見たくないものは見て見ぬふりをしていたのではないか?排除しようとしていたのではないか?と。
 
描かなければならない。確かにそこにあるのだから。
 
「見たままに描く」それだけのことが、意外と難しい。
描くことも難しいが、まず、「見る」ということが難しい。
 
思い返せば、これまでの人生で「机の足」のようなものは山ほどあった。そして、見ようとしなかったことで大きな後悔をしたこともある。
 
私には、見る勇気が必要。素直に、ありのままを、自分の目で見る力がいる。
気付かせてもらえて、よかった。
 
デッサンを通して、まさか人生と向き合うことになるとは、思いもしなかった。
大げさかもしれないし、イマイチな絵を晒しながらこんなこというのは正直恥ずかしいけれど、これがきっと自分なのだろう。